兼松善蔵は病気となったため、同年9月23、4日頃から幡野弥大夫と替わった。同年12月弥大夫が江戸へ下るため、翌申壬2月高木源五右衛門と替わった。8月8日。山田喜十郎も閉門を赦された。その夜瑞雲寺へ遣わし葬った。妹などは永井善右衛門のところへ引き取り、2、3日たって喜十郎の屋敷は宇都宮定四郎に下された。8月28日に預けられていた定出人弥七は申年に赦され、城下・町続きの外へは行けないはずだったが、申の4月に貧しさのため欠け落ちしたので行方を尋ね出させた。同10月19日決着した。戸田源五右衛門から城下追放となった。岡崎弥兵衛の御足軽は牢に入っている間は断りを入れ、1日1人米5合ずつを遣わした。このた…